昭和56年3月13日 朝の御理解              御理解 第37節                      「生きて居る間は修行中ぢゃ、丁度学者が年をとっても眼鏡をかけて、本を読むやうなものであらうぞい。」           

 一生をこの世は苦の世苦の世界にせずに、有難い勿体ない世界にする為に、一生が修行ぢゃという修行を、いよいよ楽しゅう有難うそこに生甲斐を感じての修行であるならば、一生がいよいよ有意義ないよいよ楽しい有難いものに終るでしょう、それはそのままあの世にまで持っていけれる、程しのものになるでせう。私は信心のぎりぎりの所は、ここ辺だと思うですね。一生が修行というて本当にあの人の一生は、苦労で終られたというのではなくて、その修行がねもう本当に生きて居る生き甲斐を感じる程しの修行。
 そこでねどういう所にそのポイントが置かれねばならないか、又自分の信心の一つの転機というか、切り替えていくという事かです、どういう所に置かれるかと。
 昨日は美登利会で皆さん大変熱心に発表されましたから、とうとう時間が小一時間延びました。
 それでもまだ半分がたしか発表出来ませんでしたけれど、もう終ってからまあ発表したいものを皆さん一ぱい持って居られるわけですね。それでまあ一口づつこう発表という事でもなくて、話しておられる中に北野の秋山さんですね。総代さんのがもう私は最近有難いと思う事は、先達ってから頂きました、あの御理解の神の都合と親先生がおっしゃった。私はもうこの御理解を頂いてもう本当に有難いという事を、一言話しておられます。私はもう頂き終ってから最後に申しました、もう今日の頂き方での最高一番だったと申しました。
 今まではたとえどういう、例えば難儀な問題があってもそれは神様の御都合なんだけれども、ぎりぎり煎じ詰めて行きよると、貴方に徳を与えて下さる、貴方におかげを下さろうとする、神様の御都合以外には何にもないですよ、又そうなんですよね。神様の御都合というのは氏子可愛ゆいという一念が、あのいろんな問題であり難儀なんです本当は、ほら本当に例えばもう一家を上げて、心配があるといったような心配がおこってくる事は、いよいよ一家中の者が力を受け徳を受けるチャンスなんですからね。けれどもそうい氏子がおかげを頂く為ではなくて、もう神様の御都合一本にしぼるというものを、空しゅうしとる姿なんです。自分の願いとか、自分の在り方といったような事には、もう兎に角神様の願いが成就する事の為ならば、いうならば氏子中心の信心から神様を中心に、申し上げた信心だからすばらしいのです。
 もう毎日朝参りしよるけれども、この願いばせんならんから、ここはいっちょ助けてもらはんならんから、というのではなくてです。それが神の都合であると分かったが最後です。神様の御都合であるならば、そこにはもう一つもおかげが頂けるとか、頂けないとかいう事は問題ぢゃない。それで心がすっきりするようなおかげを頂いたら、これが最高だと、それはなぜかと云うと、自分というものを中心ぢゃなくて、神様が中心なんだからというのです。まあこれをなら少し皆さんにピンとくるように云うならです、私共が神様中心の信心をさしてもろうたら、神様が氏子中心に働いて下さる事も事実なんです。その神様が私共中心に働いて下さる事の為の御都合ではなくてね、そんな事は問題ぢゃない、修行があっても、それが神様の御都合の神の都合であるならば、どんな問題でも有難く頂ける修行がね、一生出けたらもういよいよ、有難うなり・楽しゅうなり、いよいよその有難い・楽しいものをあの世にまで持ち続けていく事が出来る。子孫にも残るというのは、そういうもんだと思うです。
 玉水の湯川先生といやその当時まあ日本一の教会であり、お徳の高い先生であった。その先生の言葉の中に、「神の懐に手を突っ込め。」とおっしゃったですね。神の懐に手を突っ込め、神様の懐にはもう限りないお金ならお金があるんだと、幸福の元幸せの元を神様を持って居られるから、人の懐ども当てにして商売するなという意味なんです。神の懐に手を突っ込めと。人間が相手ぢゃないのでする。こりぁもう本当にそうです。子供の教育なんかでもそうです。人間相手の教育ではだめです。いうなら教育ママ的ないうならば育て方ではいかにもはあいかにも、形の中に入れたごと育てよるかと思いよるけれども、結局やりそこなうですそれは。神様にもうおまかせしてしまわなきぁ。
 そして神様がお育て下さるその御用の端に、いうなら使うてもらうのです。この行き方でいくなら間違いないです。もう神様におまかせする生き方。神様を中心にしての教育です。人間中心ぢぁない。私は今朝方からもう本当に勿体ないというか有難いお夢を頂いた。『それは三代金光様が若々しゅう元気でおられる、そして大きな六枚屏風というですね、あの金屏風なんか、あの舞台で立てましょう、金屏風ぢゃないですけれども、その屏風に見事というよりも何か素朴な感じで、大きなタッチで山を書いておられる。その三枚目をこう三つ、その三枚目を書いておられる時に、丁度そこに私がそれを見せて頂くおかげを頂いておる。まあすばらしいなあと始めの間は、何か幼稚園の絵のように感じよったけどね、こういとくりまわったような感じですけども、けれども出来おってしまったら、なかなか堂々とした、もう風格のある絵を書かれました。
 その絵が丁度この耳納山を書かれたような感じでした。この耳納山というのは一名屏風山といひますよね、屏風をうち立てているようだから、屏風山とこういいます。その屏風に絵を一面に書かれて、書き終えられて自分の名前をこう書かれてから、これは合楽に差し上げませう、大坪さんに差し上げませうと云われたです。まあ私は喜んで本当に金光様合楽に、又一つ宝が増えましたと云うてお礼を申し上げておる所であった。目が覚めてから、ほうら有難いお夢だったが、どういう事であっただろうかと思うて、又あの起き上がってから御祈念さして頂きましたら、『バックアップという事を頂いたんです。どういう意味か私もよく分かりませんけれどもね、バックという意味だけは私も分かりますから、ははあこれから大坪さんの合楽のバックになって下さるんなあ、三代金光様がと私は感じました。
 ねぇ何が一番有難いというてもね、いうならお商売をするでも後楯があるという程強い事はないです。OO銀行がバックになって下さると、例えば云うならば商売がやりよいでせうが、と同じ事。三代金光様が勿論三代金光様のおかげで合楽が開けたのですが、その三代金光様が合楽の為に、大坪さんの為にバックアップして下さるという事。ああすばらしい事だなあ。それを頂いていよいよ私は思うたんです。神様が三代金光様がバックアップして下さるなら、三代金光様の為に自分を空しゅうして、又働かせて頂こう。同時にそういうすばらしい屏風をバックに例えば、私が舞台なら舞台の後ろには金光様画がかれる所のその耳納山、屏風山のような山の絵を、いっぱいに書かれた屏風が私のバックにある。私が貧弱ではバックがそれこそ嘆かれる。そのバックにふさわしい、私にならなければならない。いうなら偉大な私にならなければならない。皆さんこのおかげを受けると云う事、神様が働いて下さろうというなら、こっちもなら神様の為に働こうという気をおこさにぁだめです。久留米の石橋先生が八百俵の徳を、授けるというおしらせを頂かれた。四神様からのお言葉であった。
 だから四神様の為に九州中に四神様のお徳を説いて、廻はられたというようにね、ほう金光様がただバックアップだけぢゃなく、バックアップになって下さるならば、その金光様の為に私は働こう。それには結局なら秋山さんのそれぢゃないけれども、それこそ神様を中心に金光様三代金光様を中心に申し上げた、生き方というものを、いよいよすっきりと身に付けていかにぁならん、そこに例えばどういう修行があっても、それが神様の御都合の為ならば、全然問題ぢぁなくて、有難うして・楽しゅうして愉快になってくるそういう修行なら。一生が修行とおっしゃる、そういう修行をいよいよ大事にする為には、そういうおかげを頂きたい。
 昨日総代の大和さんが、総代のお届けがあった、終った後でここでお届けをなさいますのに、最近では私が口不調法なもんですからね、親先生に教会全体の親先生の願いを、そのままに御成就に相成りますように、お取次ぎを願わしててもらうのですけれども、なかなか云ひ損ねていかん。親先生の前だと固うなってしもうてから、言葉が言葉になって出てこない。それでこの頃御祈念の時にあれをくり返し、くり返し奏上する事に致しました。
 お届けせんならんこつをずうっと、そうしましたら最近は自分の信心が、一周りも二周りも大きぅなったような、感じが致しますというお届けでした。信心が大きぅなからにゃいけません。始めの間は実感としてはただここでお取次を願う時に、するするとお取次の内容が親先生の前で出けるようにと思うて、御祈念の中にその事をくり返しくり返し申させて頂いとったら、それこそうそから出る真というわけでせうか。
 昨日の御理解でいうならば兎に角、有難い有難いというて、その有難く受けられぬ事があってもです。それを兎に角有難い喜び上手になれと言はれるからと云うて、有難くなかっても有難い有難いといよるとね。それこそ嘘から出た真であり、嘘にも涙が出てくるようになるです。不思議に有難くなかったっちゃ、有難い有難いと云ひよらにぁいかんです。大和さんの場合もそうだと思うです。皆さんがここで日々総代さん方のお届けを後で聞かれます。後のすみずみまで聞こえるように、だからマイクをここに置いたままにしとります。
 だからすみずみ全館に総代さん方のお届けが聞こえるでせう。それがなら合楽の信奉者の一人一人の祈りであり願いであって、それが本当なものになってこにぁいけんです。親先生が世界万国にかけられる所のその願いがどうぞ、御成就に相成りますようにというそういう願いが、皆さんの一人一人の願いになってこなきぁいけんです。
 だからそういう願いの為になら修行さしてもらおう、というたような事になってくる時に、神様を中心にする所の修行という事になるのぢぁないでせうか。そういう修行と、いうならば神様を中心に申し上げる、合楽教会で祈り願っておるそれこそまあ世界津々浦々に、合楽理念が浸透し和賀心時代が、十三日会が世界中に広がったらどいうすばらしい平和な、私は昨日先生方に申した事でしたけれども、ノンストラダムス何かという預言者が昔居った。その予言者が云うておるとおりに今世界がなって行きよる。
 だから合楽で私がいう合楽理念に基づく所の、海外布教が実現するならばです。いうなら私も頂いておる。地球に死相が表われたと、もう四・五年前でしたかね頂いた事があった。又は寒天危地とも頂いた。寒い天危ない地という寒天危地なんです。それを歓天喜地にして、歓びの天・喜びの地にしていく、それはもう金光教以外にはない。
 ノンストラダムスが云ったような事になっていく。いわゆる運命どおりになっていくのだから、人間の運命でも切り替えて下さるのだから神様は、信心によって。ならこの世界中の運命も替えて下さらんはずがない。こちらの信心がいよいよ偉大になる。こちらの信心がいよいよ大きなものに育っていくならば、それに修行の裏付けがうるならば、地球の運命を替えていく、もう死相が表われておる程しの地球活気を与える、蘇がえる所のおかげを頂かせて頂けれるそういう内容、そういう力を持っておるものは合楽理念以外にない。という確信の元になら合楽の信心が、これからも進められてまいりますからです、なら皆さんの一人一人もです、そういう大きな願ひがそれが実感として願えれるようになるという事。その為の修行なら、どんな修行もいといません、そこには生き甲斐が感じられる。それは神様を中心に申し上げて、神の都合この一言が自分の物になる事なのです。
 一生が修行と仰せられるがそういう意義のある、天地のいうならば神様のお心にぴったりくる。しかし地球上の総人類がいうならば助かっていけれける程しの、願いの為の修行であるならば、こんな有難い修行はない。そういう修行というものが、私がおかげ、はあ息子が今度はまあ高校の試験が今昨日あっておりますがね、試験の合格をする為にどうぞ一生懸命修行しますてん、こげなケチな修行はないです。
 なら果たしてそれをあの何んちゅうか合格した事が、はたして幸の元になるやら、ならんやら分からん、それよりももっともっと大きな絶対のもの間違いのない、いうなら人間幸せの為の信心に私共の信心のね、何かそこに転機を頂いた時にそれに切り替えていけれる、秋山さんぢぁないけれども、神の都合という事が分かったら、もうこんなにすばらしい楽な事はない、又は修行も楽しゅうなってくるというような修行で、一生を終らせて頂けるようなおかげ、それを又いうならば一生が苦の世だけんの世界だで終ってしまう生き方も、一生をそうした神様の御都合の為の御修行で終らせて頂けれる修行にいうなら、生き方に張りが出けてくるです。いよいよ有難くなってくる。その有難いという心にはまあそれこそ、おかげはいらんというたっちゃ、もうおかげの方が押しかけてくるような、おかげにもなりませうね。                                  どうぞ